おおた時が別れよ

投稿者:DAN (1987年生まれ/男性/岐阜県在住)

祖母は愛知県に住んでいますが、故郷は長崎の五島列島の中通島です。
齢80に迫った祖母がまだ体が動けるうちに故郷の親戚に顔を出したいとのことで、息子である私の父が連れて行くことになりました。
当時大学生だった私は、夏休みだったということもあり、また、両親達の出身地を見てみたいという気持ちもあり、ついて行くことにしました。

「おおた時が別れよ」。
この言葉は、その長崎で、祖母の妹が別れ際に言っていたと記憶しています。
「会った時が別れ」。
記憶に残ったのは、この言葉が非常に極端だからです。
会った時が別れ、始まりがイコール終わり、中間を省いたかのような印象が強いです。
再会を果たした二人は、お互いがもう高齢で、これが最後なのだという思いがあったから、この言葉を「一期一会」に近い意味として使ったのだと、当時の私は思いました。
祖母も、「そうよそうよ、おおた時が別れ」と相槌を打っていました。
しかし、私の解釈は数年後に変わります。

NHKで「新・映像の世紀」という番組が放映されました。
内容は主に戦争を取り扱っていましたが、番組を見ていた私はふと長崎での祖母達のことを思い出しました。
祖母達は過去、戦争を経験しています。
本土には、祖母の親戚も住んでおり、親戚を長崎の原爆で喪うという経験もしています。
祖母の夫、私の祖父は中国に出兵していました。

平和な時代に生きる私達と、戦争の時代を生きた祖母達の感覚は違うのかもしれません。
高齢で、時間が無いから「会った時が別れ」なのでは無く、今、目の前の人が、元気に生きていた人が、明日にはもういない。
そういったことが溢れていたのが戦争の時代だったのでしょう。

勿論、今の私達の時代においても、明日何が起こるか分かりません。
災害が起こるかもしれませんし、事故があるかもしれません。
病気で急に死ぬこともあります。
ですが「おおた時が別れ」という極端な感覚はあるでしょうか。
「一期一会」という諺から、頭ではそういうものなのだろうと分かってはいても、心には刻まれているでしょうか。
少なくとも、私は本気でそう思えたことはありません。
私はそれ程、平和な時代に生きているのでしょう。

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